「リアルな投稿」って、何だろう。
今日は玉野高校に出勤した。
朝から天気がよかった。初夏の日差しというやつで、グラウンドに出ると少し眩しいくらいだった。先週に続いて学校に来ると、だんだんと校舎の空気感のようなものが身体に馴染んできている気がする。教室の前を通るとき、廊下に漂う独特のあの匂い——掃除の洗剤と、古い木材と、給食の遠い残り香が混ざったような——が、なんとなく懐かしい。自分が高校生だった頃の記憶と、今ここで仕事をしている現実が、ふと重なる瞬間がある。
今日のミッションは、SNSの投稿制作だった。
具体的には2件。5月26日に行われた球技大会と、5月28日に行われた生徒会役員選挙の投稿だ。学校の担当の先生から、写真と原稿を受け取る。原稿といっても、いわゆる「学校通信」に載るような形式的な文章だ。日付、種目、結果、所感——整然と並んだ事実の羅列。それをInstagramのキャプションにリライトするのが、今日の私の仕事だった。
一見、地味な作業に見えるかもしれない。
でも私はこの仕事の中に、毎回のように「問い」を見つける。
「作られた投稿」と「リアルな投稿」は何が違うのか。
原稿を読みながら、今日もその問いが浮かんだ。
学校が書く公式文章には、ある種の「型」がある。正確に言えば、「型に沿って書かれた安全な言葉」がある。「熱戦が繰り広げられました」「一人ひとりの全力のプレイがクラスの熱狂を呼び起こし」「大きな歓声と熱気に包まれた」——これらの言葉は、間違っていない。むしろよく書けている。でも、読んで胸が動くかというと、正直そうじゃない。
なぜか。
私はそれを「感情の不在」だと思っている。
事実は書いてある。でも、そこにいた誰かの感情が、言葉の中に宿っていない。読んでいて、画が浮かばない。その場の空気が伝わってこない。「学校のイベントがありました」という情報は受け取れるけれど、「行きたかった」「見たかった」「自分もあの場にいたかった」という感情が動かない。
これが、「作られた投稿」の正体だと思う。
作られた投稿というのは、「悪意のある嘘」ではない。むしろ誠実に、事実を伝えようとして書かれている。でも、誰かに届けようという意志が、言葉の中に見えない。広報の義務として書かれた文章は、義務の匂いがする。それを読む側は、無意識にそれを感じ取る。だから素通りしてしまう。
では、「リアルな投稿」とは何か。
私が出した答えは、シンプルだった。
「そこにいた人が、読んで自分の記憶と重なるかどうか。」
もう少し丁寧に言うと——その投稿を読んだとき、見た人の頭の中に「あの瞬間」が蘇るかどうか。それがリアルな投稿の条件だと思っている。
球技大会のキャプションを書きながら、私はこう考えた。バレーボールをしていた生徒たちは、「全力のプレイがクラスの熱狂を呼び起こした」なんて思いながらプレイしていない。ただ、勝ちたかった。楽しかった。ミスして悔しかった。転んで泥だらけで笑っていた。サーブが決まった瞬間、クラス全員が立ち上がった。そういう一瞬の、生の感情こそが、その場の「リアル」だ。
公式の言葉はそれを「熱戦」という一語に圧縮してしまう。圧縮された言葉は、情報としては正確でも、感情としては空白だ。
だからリライトするとき、私はいつも「圧縮を解凍する」イメージで書いている。原稿に書かれている一語一語の裏に、どんな光景があったのかを想像する。写真を見て、その場の空気を読む。そして、読んだ人がその空気の中に一瞬でも入れるような言葉を選ぶ。
言語化の仕事とは、感情を再現することだ。
これは、私がSynQ Creativeを立ち上げたときから変わっていないコアの考え方だ。「伝わらない想いを、伝わるかたちに変える」というコアメッセージも、突き詰めればこういうことだと思っている。
事実を伝えるのは、テクニックだ。正確に、過不足なく、誤りなく——それはライティングの基礎として大切だし、軽視するつもりはない。でも、人が動くのは事実によってではなく、感情によってだ。
人が投稿に「いいね」を押すとき、何かが胸に刺さったときだ。スクロールの手が止まったとき、それは「情報の正確さ」に止まったのではなく、「何かを感じた」から止まったのだ。その「何か」を言葉で意図的に作り出すこと——それが私の仕事の本質だと思っている。
生徒会選挙のキャプションを書いていたときも、同じことを考えた。「投票の結果、両名とも信任されました」という原稿の言葉。事実として正確だ。でも、全校生徒の前に立って、覚悟を持って言葉を語った候補者の緊張感や、その言葉を聞いた生徒たちの空気感が、その一文には入っていない。「言葉に、覚悟がありました。」——私はそんな一文を差し込んだ。事実ではなく、感情の描写だ。でも、たぶんそこにいた誰かの記憶と、重なる。
学校という場所で仕事をすることの意味。
エキスパートやコーディネーターという役割で玉野高校に関わり始めて、しばらく経つ。最初は正直、自分がここで何をするのか、手探りのところもあった。探究学習のプログラム設計や、地域との連携といった役割は想像できた。でも、こうしてSNS運用という形で学校の「日常の記録者」になるとは、あまり思っていなかった。
でも今は、これが意外と重要な仕事だと感じている。
学校の日常というのは、膨大な「名もなき熱狂」で満ちている。球技大会の、あのサーブが決まった瞬間。生徒会選挙の、マイクを握った候補者の手の震え。そういう無数の一瞬が、毎日生まれて、誰にも記録されずに消えていく。
私がやっていることは、その消えていく瞬間を、言葉という形で少しだけ引き止めることだ。完璧に再現することはできない。でも、「あ、あのときのことだ」と誰かが思ってくれる言葉が一つあれば、その瞬間は少しだけ長く生きる。
地味な仕事だ。派手さはない。でも私は、この仕事が思いのほか好きだ。
クリエイティブの会社をやっていると、「すごいもの」「バズるもの」「インパクトのあるもの」を求められることが多い。それはそれで楽しいし、挑戦しがいもある。
でも今日みたいな日に、私は思う。
「伝わる」というのは、大きさではなく、精度だ。
派手な言葉より、その人の記憶にピタッと重なる一文のほうが、ずっと遠くまで届く。今日の投稿が、玉野高校の誰かの「あの日」を少し長く生かすことができたなら、それで十分だ。
明日も、言葉を磨きに行こうと思う。